温泉旅館

10年ぶりに僕は日本で一番好きな温泉旅館へと足を向けた。長い運転時間も遠い田舎の風景も、子供の頃はすべてが斬新で魅力的だったのに、大人になった今それほどの感動はなく、すんなりと到着してしまった。この場所は10年前と比べてずいぶんと変わってしまった。真っ白に塗り替えられた壁、近代的なデザインの休憩所。すっかり改装された建物に、テレビやSNSの効果で集まった若者や外国人客で賑わっている。10年と言う月日がどれだけ長いものか思い知らされる。変わったことといえば、僕の方はどうだろう。環境はガラリと変わったものの、自分はさほど成長していないことに気づく。強いて言えば少し泳げるようになったことくらいだろうか。いつのまにか貸切状態になった露天風呂でひとり平泳をしてみる。日没の静けさに、真冬の一番星が枯れた木々の隙間からいつまでも揺らめいていた。

Twilight

日の沈む頃、黄昏色に染まった空のコントラスト、遠くに描かれた一筆の飛行機。夕方五時のチャイムが響き、一番星が静かに瞬く。その景色が好きだ。でもその時間は一瞬で、少し目を離せばすぐに夜の闇に飲まれてしまう。そして不意に僕らは、いつのまにか遠くまで来てしまったことを思い知らされる。

どうしても過去のことは輝いて見えるし、現状や続く日常の良し悪しに自分で気づくことはなかなか難しい。充実してみえる毎日でも、いつもどこかに焦りや不安が伴う。いつまでもこのままでありたいと、大切なものがずっとそこにあってほしいと願っても、変わらないものなどない。考えても仕方ない葛藤が終わらない。覚悟を決めたはずなのに、結局あの頃、あの場所に帰りたくなってしまう。今はもう違う帰り道、夜の信号はずっと先まで青が続いている。歩みを止める術はもうない。

もう年の暮れ、街はちょっと早いクリスマスムードのイルミネーションで賑わう。夜はより一層冷え込んできた。歳をとるにつれてやることも増え、移り変わる季節に敏感でなくなってしまった。風の匂いや木々の色めき、そういった季節の変わる予感さえ感じにくくなってしまった。それだけやることに追われているのだろう。それはそれでありがたいが、少し淋しい。

久しぶりに眺めた沈みゆく夕日に、こうやって一日がまた終わっていくんだなと、あの人の歌っていた歌詞の一節を思いだしていた。

忙しなく続く僕らの生活、それがどんなに慌ただしくても、いつだって空は平等で時は流れ、地球は回り続けるのだろう。

あと何回僕らは平穏な日々を過ごせるのだろうか。今日も空は何も言わずただ見守ってくれている。未来はきっと僕らに委ねられている。この夕日が沈んだら、一夜の静寂が訪れ、明日もまた朝日が昇るはずだ。

月夜の祈り

そよ風の匂いや空や木々の色めきに

気づかぬまま過ごす人も少なくないだろう

画面に目を伏せて人々が行き交う街

切手を一つ添えてあなたに手紙を贈ろう

争いのない時などないと分かっているけれど

今夜だけ同じ星を誰かが見られたなら

余裕のない日々の中で息の詰まる広い世界

いつだって思いやりを忘れずにいられたらな

できるだけ多くの人が笑顔でいられるようにと

祈るように歌うよ 三日月の綺麗な夜

限られた時の中で一緒に唄を歌おう

思い出はいつも輝いてみえる

あっという間に月日は流れ、幾度めかの冬を迎えようとしている。今年も色々あったな。

急激な夜の冷え込みに感傷に浸れば、ふと思い出すあの頃の記憶。木漏れ日の射すキッチン、散らかった居間、石油ストーブの匂い。今はもう戻れない、家族の風景。

思い出はいつも輝いてみえる。あたりまえの日々を幸せと呼ぶのだと気づかされるのは、いつも後になってからだ。与えられた今を大切に過ごそうと、少しだけ背筋を伸ばす。

ねむりの森へ

あなたの寝息を聞きながら

僕はそっと眠りにつくのです

今日の一日が穏やかであったこと

あなたがそこにいてくれることに

安堵しながら 感謝しながら

明日も同じように陽が上り

穏やかな夕暮れが訪れるようにと

おまじないを一つ胸に唱え

夜に思いを馳せるのです

やがて忘れてしまいそうな

何気ない瞬間の一つ一つが

僕とあなたのお守りとなるのです

Blend Life

朝は一杯のコーヒーと

レコードから始まるルーティー

観葉植物に水をやって

読みかけの本を手に取って

ゆるりと流れるミュージック

Bill EvansGerry Mulligan

外から入り込んでくる風に

身を委ねて揺れるハンモック

これからなんて誰もわからないし

何を言われたところでもう気にしない

でもひとりではどうにもうごけない

愛すべき人を愛するだけ

常識、偏見、安定、自由

天秤にかける暇があれば

穏やかな日々と素晴らしき世界に

愛と感謝とリスペクト

無理や贅沢は言わない

とても質素なものでいい

穏やかに暮らしたいだけなのに

やらねばいけないことに脅かされている日々

ただ少し歌いたくなったな

聞いておくれよ

昼下がりは外へ出てみよう

木漏れ日を浴びて少し眠ろう

ギターやピアノを弾きながしては

今日一日を曲にしよう

夕方になれば散歩に出かけよう

夜は借りてきた映画でも観よう

天気は多分なんとかなる

きっといい未来がそこに待っている

無理や贅沢は言わない

とても質素なものでいい

穏やかに暮らしたいだけなのに

やらねばいけないことも

きっとなるようになっていく

ただ少し歌いたくなったし

歌わせてくれよ

自分に言い訳は並べない

決めた意志や情熱は止まらない

人に迷惑はかけるな

そんなこと誰だって知っている

進むべき道を見つけたら

後はやることをただこなすだけ

こんな素晴らしき毎日を

僕はずっと愛している

11月の風

木々の葉は散り、風はざわめく。

何故お前はここにいるのかと

問いただすように轟々と鳴り響く。

不意に僕は居た堪れなくなる。

長くなった影、短くなった残りの月日に

焦燥に駆られあてどなくまた歩き始める。

成すべきことと、相反する今の自分を見つめ直す。

恐らく今日は昨日よりも早く日が落ちるのだろう。

重い足取りに、身体はなかなかついて来ない。

澄んだ青空でも風はもう冷たい。

探している答えはきっと、十一月の風の中。